第44回 1本ではなくいっぱい

【C&T2020年10月号9面にて掲載】

はじめに

 地球の公転、四季の変化に対応して、毛髪の伸び方にもリズムがあることをご存じだろうか。髭の伸び方の研究で、冬の1月には0.305㎜/日しか伸びないが、夏の8月には0.538㎜/日も成長するという。

 他にも、心臓の拍動や体温は夏が高く冬は低い律動があり、これらの季節変化は、赤ん坊には存在せずしだいに体得する後天的バイオリズムらしい。

 今回は美容の視点から離れて『1本』の毛髪から『いっぱい』の可能性で述べてみたい。

 まず、髪の毛が生えている本数は人種によって異なる。例えば、日本人なら平均で10万本の髪の毛が生えているといわれ、多い人で12万本ほど、少ない人だと10万本をきる本数だ。

 当然のことながら薄毛が進行している方は平均より圧倒的に少なく、5万本以下になっているケースがほとんどだ。

 一方で髪の毛が細く、毛髪の量が多いと言われているのが西洋人で、平均でも12万本から14万本生えているといわれ、日本人より髪の量が多い。

 日本人の髪の毛は150本/㎠程度の本数が生えているといわれているが、西洋人は200本/㎠以上の髪の毛が生えている。

 薄毛の目立ちは、日本人の方が髪が太いため、薄毛に見えにくいという意見と、髪が黒いので地肌の肌色との違いから目立つともいわれる。


図1 ザー・サーリング
(米国ユタ大学教授)1)

過去の居場所を特定 4)

 1本の毛髪で、その人の過去の足取りがわかるとする米国ユタ大学の研究結果が、2008年の米科学アカデミー紀要に発表された。容疑者のアリバイ調査や死体の身元確認といった鑑識への応用が期待される。

 サーリング教授(地球物理学、図1)らは、全米で水道水および美容院で切られた髪の毛を採取・分析した。その結果、地域ごとに化学成分に顕著な違いが見られることが判明し、その人が飲む水の成分との関連が確認された。

 彼は、各地で採取した水と髪のサンプルをもとに、水素と酸素の同位体の比率別に色分けした米国地図を作成した。この地図により髪の持ち主が滞在していた大体の場所を把握できる。

 また、髪が長ければ、過去数週間から数年までの居場所を追跡することが可能だといい、「人は、食べたものと飲んだもので構成される。それが毛髪にも記録されているということだ」と同教授は語る。

 ユタ州では、2000年10月にソルトレーク郡で発見された女性の部分遺体の身元確認の際、髪の毛から「過去2年間にアイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州内を移動し、その後オレゴン州かワシントン州に入った可能性がある」ことが判明したという。

 捜査を担当した刑事は「驚くべき方法だ。(事件の捜査は)ピースを1個ずつ探してパズルを完成させていくようなものだが、この方法で間違いなくピースを手に入れることができる」と語った。

 またこの技術は、食中毒などの病気の発生源や、かなり古い時代のヒトや動物の移住、薬物の生産地などの特定にも活用できるという。

 しかし、犯罪の鑑識を行うのには一番適切なサンプルであると思いがちでも、毛髪には、鑑識に必要かつ十分な量が含まれてはいないようだ。

 特に、途中から切った先端や中間の髪の毛ではほとんど不可能だ。毛根部分が目視できる程度残っていて、5本前後の本数があれば鑑識可能になるという。


図2 キャリー・マリス 2)

毛髪の3Dアート 7)

 私たちは遺伝子によって、各々の特徴が決定されているが、自分の遺伝子について深く考えたことはあるだろうか。髪の毛1本にすら、膨大な遺伝子情報が詰まっている。

 ある意味、「プライバシーの塊」でもあるDNA(deoxyribonucleic acidの略、デオキシリボ核酸)を、私たちは常日頃から公共の場にたくさん落としてしまっているのが現実だ。

 スピルバーグ監督の映画「ジュラシック・パーク(1993年公開)」は、琥珀に閉じ込められた蚊の化石の血液からDNAを抽出して恐竜を復活させるという物語だった。

 これは、コロナ禍で一躍有名になったPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査が科学的ベースである。特定の遺伝子領域をサーマルサイクラーで加熱、冷却、加熱でDNAからDNAを人工的に増幅する方法だ。

 PCRの開発は、昨年亡くなったキャリー・マリス(米国の生化学者、1944年12月28日―2019年8月7日、図2)による。

 しかし、実際には氷漬けで琥珀に閉じ込められるなど、どんなに保存状態が良くとも、経過時間によってDNA配列は判読不能になり、680万年後には全てが失われるらしい。

 映画のような6600万年前に絶滅した恐竜の誕生は限りなくゼロということになる。


図3 ヘザー・デューイーハグボルグ
(学際的アーティスト)3)

 そんなDNAに対する意識啓蒙のために活動しているのが、シカゴ美術館附属美術大学に所属するアーティストのハグボルグ女史(図3)だ。


図4 テキサスで開催された髪の毛1本の遺伝子情報による3Ⅾバイオアート 4,5)


 2015年にテキサスで開催されたイベントで、3Dプリンターを用いて制作した、3Dバイオアートを展示した(図4)

 女史は、髪の毛1本から一体どれほどの遺伝子情報が読み取れるのかを調査するため、公共の場やトイレ内に落ちていた、「誰かの髪」のサンプルを集めた。

 集めたサンプルは、ニューヨーク市内にある生物学ラボに持ち込み、遺伝子分析をおこなった。

 分析によって、個人を特徴づけるDNAの要素を検出し、それをもとにコンピューターを用いて、予測できる人物の顔モデルを制作。できあがったモデルを3Dプリントして、人物の顔を再生成した。

 もちろん、再生成された人物の顔が、実際に本人の顔とどの程度似ているのかはわからない。

 性別や目の色、母親の人種といった要素から考えうる顔というだけでDNA情報から想定できる顔の作りはかなり幅広いようだ。

 ただし、抜け落ちた髪の毛1本に、人物の顔が再現可能なほどの遺伝子情報が込められていることには、驚きを禁じ得ない。


図5 理化学研究所などによる毛髪診断コンソーシアム 6)

おわりに

 1本の髪の毛は遺伝子情報だけではなく、後天的な環境の影響もしっかりと受けている。

 最後に日本では、名だたる企業がこぞって投資に乗り出し、「毛髪診断コンソーシアム」を2017年に立ち上げている(図5)

 毛髪には健康状態が、12センチ先には1年前の健康情報が保存されているという。

 毛髪の形状や内部に含まれるタンパク質やミネラル、脂質などさまざまな物質の状態を分析することで、健康データを時系列に手に入れることができ、健康状態の把握や疾病の早期発見が期待できる。

 これは、注射などで体を傷つけることがない、痛みのない健康診断だ。要するに、前日から食事を制限する必要もないし、採血も検尿も必要なくなるかもしれない。

 気が向いた時にでも、髪の毛を然るべき機関に送っておけば、AIで健康診断ができてしまう――そんな時代がやって来るのだ。

 参考文献
 1)https://en.wikipedia.org/wiki/Thure_E._Cerling(2020年6月1日アクセス)
 2)https://ja.wikipedia.org/wiki/キャリー・マリス(同)
 3)https://en.wikipedia.org/wiki/Heather_Dewey-Hagborg(同)
 4)https://techable.jp/archives/23553(同)
 5)https://www.excite.co.jp/news/article/Gizmodo_201302_dna3d/(同)
 6)https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1910/10/news016.html(同)
 7)https://matome.naver.jp/odai/2146457775854879701(同)
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島田邦男

琉球ボーテ(株) 代表取締役

1955年東京生まれ 工学博士 大分大学大学院工学研究科卒業、化粧品会社勤務を経て日油㈱を2014年退職。 日本化粧品技術者会東京支部常議員、日本油化学会関東支部副支部長、日中化粧品国際交流協会専門家委員、東京農業大学客員教授。 日油筑波研究所でグループリーダーとしてリン脂質ポリマーの評価研究を実施。 日本油化学会エディター賞受賞。経済産業省 特許出願技術動向調査委員を歴任。 主な著書に 「Nanotechnology for Producing Novel Cosmetics in Japan」((株)シーエムシー出版) 「Formulas,Ingredients and Production of Cosmetics」(Springer-Veriag GmbH) 他多数

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