【週刊粧業2021年1月18日号9面にて掲載】
今から30年近く前の1992年、流通ジャーナル創刊30周年記念特集号の取材で、当時、東京 浜松町の芝パークビル(通称 軍艦ビル)にあったダイエー東京本部で中内㓛社長(当時)にインタビューした。
執務室の入口には、ダイエーが創業当時から使っていた歴代のレジスターがずらりと並べられて実に壮観だった。中内さんが自らポットで紙コップにコーヒーを入れてくれたのには恐縮した。
中内さんは元気な声で、「創刊30年周年か。なかなか頑張っているじゃないですか。君たちはいいなあ、好きなことが書けて。僕も一度新聞記者をやりたかったんですよ」。当時、バブルが弾けて、ダイエーの業績にもやや陰りが見え始めていた時期だっただけに、彼の冗談にも本音が少し混じっていたのかも知れない。
翌年秋の叙勲で中内さんは、スーパー業界では初めて勲一等瑞宝章を受賞された。親しい記者有志で、浅草の隅田川沿いにあったダイエーの居酒屋「リキシャマン」で中内さんの受賞を祝う会を開いた。
その席で、予め秘書に彼のサイズを確認して仕立ててもらった洒落たブルーのブレザーをプレゼントした。これには中内さんも喜んでくれて早速袖を通された。
2次会はやはり浅草にあったダイエーの洋風居酒屋「ハフ」で盛り上がった。「僕は昔からジャズが好きでね」と中内さん。その頃のダイエーは何でもやっていた。
翌日、たまたま記者会見があったが、そこに彼は、我々が贈ったブレザーを着て現れた。こうした細かな気遣いも中内さんらしかった。
戦時中、陸軍軍曹としてフィリピン北部の山中を彷徨い、九死に一生を得た中内さんは、戦死した人々に終生後ろめたさを感じていたという。
日々の生活必需品が安心して買える社会をつくるため、「よい品をどんどん安く」が今も変わらぬダイエーの企業理念となった。
安売りへの抗議に対して彼は三宮店の店頭に、「日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために商人が精根を傾けて努力し、その努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか?」と貼りだして反論した。これがまさに流通革命なのである。
だが1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、この三宮店をはじめとして、ダイエーが神戸市内で展開していた店舗の多くが壊滅的な被害を受けた。
中内さんはすぐに対策本部を立ち上げ、営業本部長だった川一男専務を現地に派遣する一方、ライフラインの確保のため、あらゆる交通手段を使って緊急物資を現地に運んだ。
しかしダイエーの業績に与えたこの災害の影響は大きく、同年度は創業以来の赤字決算を余儀なくされた。
その後1990年代後半からダイエーの業績は下降を続け、紆余曲折を経て2015年、イオングループの完全子会社となって現在に至っている。
だが中内さんの理念を今も灯し続けている企業の一つがダイエーの子会社「ビッグ・エー」である。「大栄」を英語表記した社名の同社は現在、首都圏に230店近くを展開しており、ほとんどの店舗が24時間営業を行っている。
ドイツのハードディスカウンター、「アルディ」をモデルとして1979年に創業したが、スタートは余り芳しいものではなかった。
だが100%国産品をめざして商品政策を大きく転換させてから業績が上向いてきた。あまり目立った存在ではないが、消費者の支持を着実に集めている。
以上、流通革命を先導した日本リテイリングセンターの渥美俊一氏をスタートに、それを実現させたダイエーの中内 氏を最終回としてこれまで、40名を超える国内外の経営トップとの50年に及ぶ交流の中から感じた思いやエピソードなどを綴ってきた。
まだまだ多くの方々のお顔が思い浮かぶが、紙数にも限りがあることもあり、この辺で筆を置くことにしたい。
皆さんに共通するのは、人々の日々の生活を、より良く快適にしたいという「利他の精神」である。これを真摯に追求し実践してきた方々ばかりである。
「一隅を照らす」という言葉がある。高野山延暦寺の天台宗開祖、伝教大師 最澄が後進の指導のために著した「山家学生式」(さんげがくしょうしき)の中の一節である。
「一隅を照らす、是れ即ち国宝なり」。これからもこうした方々が数多く現れ、世の中を明るく照らしていただきたい。(完)