美容室向けヘアケア専業メーカー ティアーズ創業者 山谷次夫氏の半生に迫る

粧業日報 2025年4月21日号 3ページ

カンタンに言うと

  • 50歳で一念発起し創業、40年経て有力美容室向けヘアケア専業メーカーへ躍進
  •  独立後は様々な困難に直面するも、不屈の精神で成長軌道へ
美容室向けヘアケア専業メーカー ティアーズ創業者 山谷次夫氏の半生に迫る

 ティアーズは1985年創業の美容室向けヘアケア製品の専業メーカーで、創業以来、健康で美しい髪のための研究と開発に努めながら、40年にわたり歴史を刻んできた。現在は東京都町田市に自社工場を構え、企画・研究から調合・充填仕上げ・品質管理・出荷まで自社一貫体制を確立するとともに、全国各地に事業所を展開。「自然との共生」をテーマに豊かな自然の恵みと最新のテクノロジーが融合した高品質なオリジナル製品を、全国のヘアサロンへ届けている。

 今回は、ティアーズ創業者の書籍「人生に悔いなし」(定価=1980円(税込)▽著者=「cosmic flow」岡田光津子▽発行者=森 京都.▽発行所=コワパリジャポン)から山谷次夫(やまや・つぎお)氏の波乱に満ちた半生に迫っていく。

 次夫氏は1935年4月20日、秋田県大仙市横堀田茂木の裕福な地主農家・山谷長之助の次男として誕生した。1942年、横堀尋常小学校に入学。小学校時代は優秀な生徒で、算数はいつも一番だった。1948年、小学校と同じ校舎にあった中学校に入学。中学でも数学だけはいつも学年でトップで、全校生徒が同じ問題を解くテストでも1番を取ったという。卒業式では総代となったが、風邪を引いたと嘘をついて欠席して父親が代理で卒業証書を受け取るという一幕もあった。

 1951年、男子校・大曲農業高校の初代林業科に入学。1年生の時に600名が参加するマラソン大会で7位に入賞した。当初は陸上競技部に所属していたが、「他人の前で思い切り自分の意見を喋りたい」と一念発起し、2年生の時に弁論部に入部した。校内の討論会で仲間と切磋琢磨しながら努力し、弁舌会などで優勝できるくらいまでになった。この時の頑張りが、のちに政治を志す仲間との出会いにつながっていくことになる。

 1954年、法政大学社会学部に入学。高校に続いて大学でも弁論部に所属した。将来は政治家を目指し、理想社会の実現のため、米軍基地反対闘争や三池炭鉱などに通い、労働運動に熱中。当時の法政大学の学生の多くがマルクスに傾倒しており、次夫氏もその一人だった。法政大学の弁論部主催の大学弁論大会で委員長を務めていた次夫氏は各大学の弁論部との交流により、政治家の伊藤公介氏や埼玉県元知事・上田清司氏、故小渕恵三元首相など、一流の人脈を築いていった。

 1959年、法政大学を卒業。大学で中学・高校教諭免許を取得した次夫氏は、郷里の秋田に戻り、村立千屋小学校の助教諭になった。学校の職員になれば組合活動ができると思って就職したが、期待通りにはならず後悔した。しかし、自分に与えられた環境でどんなことができるのかと考え、仕事に打ち込んだ。教え子の一人・佐々木毅という少年は後に東京大学に進学し、2009年には学長となり、学習院大学の名誉教授も務めた。楽しい小学校助教諭時代だったが、「このままで終わっていいのだろうか」という焦燥が膨らみ、助教諭を辞する決意をする。

 1960年、菊名電子工業に入社。620名の社員からなる同社は電子部品をつくる会社で、次夫氏は東芝や日本コロムビアなどを担当していたが、自ら作った組合が発端となり、入社して4年後に会社が倒産。その責任を取る形で1964年、同社を退社した。1965年、近所に住んでいて時々顔を合わせて挨拶する関係性だった人物の紹介でヘレンカーチスジャパンに入社。この人物こそがアメリカのヘアケア製品製造会社であるヘレンカーチスの日本支社、ヘレンカーチスジャパンの佐藤専務だった。平社員から入社したが、持ち前の交渉力を発揮し、年間約1億円の値下げ交渉をまとめあげ、誰もが一目置く実績をつくった。入社から半年後には係長を飛び越し、課長心得に就任、時を経ずして課長になった。

 実力主義で正当に評価される職場環境で意欲を燃やした次夫氏は、1971年、36歳の時にマーケティング部次長代理に就任。1977年、42歳の時には次夫氏を経営者にしたい会社の指令で早稲田大学院にてビジネスを学んだ。1982年(47歳)には取締役、1983年(48歳)には社長に就任した。2カ月に1度、シカゴ本社で行われる会議は全て英語で行われるため、必死に語学を習得するとともに、営業、マーケティング、研究開発、財務など経営者としてのスキルを身につけていった。

独立後は様々な困難に直面するも
不屈の精神で成長軌道へ

 1985年(50歳)、ヘレンカーチスジャパンでともに頑張ってきた日本人上層部4名とともに1000万円ほどを出し合いティアーズを設立。その後、彼らを慕ってヘレンカーチスジャパンの工場で働いていた人たちが5人ほど加わった。さらに10人が加わり、総勢20名という構成でスタートした。社名(ティアーズ)には「積み重ねた層・階段」という意味が込められている。一歩一歩着実に実績を積み重ね、より多くの人々に愛され、信頼される企業を目指して命名された。

 喜び勇んで自社ブランドの製造販売に乗り出したが、現実は厳しかった。当時の売上は20人の人間を食わせるには程遠い額だったという。1987年(52歳)、青年時代からの夢だった政治家を志し、多摩市市議会議員選挙に立候補したが惜敗。この落選をきっかけにティアーズの経営に本格的に参入することになり、このことがティアーズの発展に大きくつながっていくことになる。

 1988年(53歳)、次夫氏は本気でティアーズに取り組むことを決意したが、大量の返品という危機に直面した。重圧の中で一人苦しみながらも決して弱音を吐かず、その状況から逃げ出すこともしなかった。ヘレンカーチスジャパンの顧客を無理に引っ張ってくることもしなかった。「苦境の中にあってもやるべきことをやっていれば必ず道が開ける」。次夫氏の心の中にはそんな思いが去来した。

 その後、ひたすら全国にある300軒もの美容室を一人で営業し、自社製品を使って欲しいと頭を下げて回り、苦境をしのいだ。次夫氏自身が美容室に直接出向き、問屋を通さない形でなるべく安く販売するよう心掛けた。始発の新幹線で日帰りで全国各地を飛び回り、新規の美容室を開拓していった。その努力が実を結び、紹介が紹介を呼ぶ口コミで徐々に評判が広がっていった。

 1992年(56歳)、「全身に塩を擦り込むと痩せる」という塩ブームが沸き起こり、このブームに乗ることができ、「塩の精」を製造。問屋を通して売り出したところ、150万個を売る快挙を達成した。ここで蓄えた資金をもとに、稲城市坂浜に工場兼事務所を建て、府中と2カ所の工場で商品生産ができるようになり、これまでの借り入れも全て完済した。

 2000年(64歳)、創業から15年を迎えた年に、会社を多摩市南野に移転。ロンドンのJINGLES社との提携も果たした。2006年(70歳)、東京都町田市(現本社)に移転。倉庫・工場・研究室のほか、トレーニングセンターも併設した。2018年(82歳)、TROLL COSMETICS社と販売提携を開始し、同社の高級ヘアケアブランドを日本のサロンに紹介できるようになった。

 人生のターニングポイントで勝負し続けてきた次夫氏率いるティアーズは2025年(90歳)を迎えた現在、年商は20億円を超え、美容室向けヘアケア専業メーカートップ10にランクインする規模にまで躍進している。

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