花王は、米デューク大学 松波宏明教授の研究指導のもと、ムスクの香りを網羅的に認識する嗅覚受容体「OR5A2」を発見した。さらに、「OR5A2」が認識した香料としなかった香料の化学構造情報から機械学習モデルを構築することで、ある物質がムスク香料かを簡便かつ高精度に判別することが可能になった。
ムスクの香りは柔らかで深みのある甘さを持ち、フローラルやウッディーの香りと同様に大変重要なもので、これまで数十種類のムスク香料が見出され、様々な用途に利用されてきた。
一般的に、化学構造がよく似た香料は嗅いだ際の香りも類似することから、目的の香りがする新しい香料を探す際には、化学構造を手がかりにすることが有効だが、ムスク香料は化学構造から、4つのグループに大別されるものの、ムスクの香りを感じさせるために重要な化学構造と嗅覚の仕組みは長年の疑問で、ムスクの香りがするかどうかは、まだ香りが知られていない物質を化学合成して嗅いで評価するほかに手段がなかった。
ヒトの鼻には約400種類の嗅覚受容体が存在し、香りのセンサーとして働いている。それぞれの嗅覚受容体は特定の種類の揮発性物質を認識し、その情報が脳のかは不明だ。
そこで今回は、多様な化学構造を持つ香料がムスクの香りと認識される手がかりとして、嗅覚受容体に着目した。これまでに、ムスクの香りを認識する嗅覚受容体としては「OR5AN1」が見出されているが、「OR5AN1」は4つのグループのうち2つ(大環状ムスクとニトロムスク)しか認識できない。4つのグループを網羅的に認識する受容体を特定できれば、香りの質、安全性、コスト、サステナビリティ等の面において優れた新しいムスク香料を開発できる可能性がある。さらに、ヒトが感じる香りの種類が嗅覚受容体を介してどのように生み出されているのかという嗅覚の本質についての理解も深まると考えられた。
一般的に嗅覚受容体の解析には培養細胞を使用するが、多くの嗅覚受容体は培養細胞の中で不安定なタンパク質となり、細胞表面で正しく働くことができない。そのために、培養細胞の外側から香料を投与して、嗅覚受容体が反応するのかを調べる実験は困難とされてきた。このことが、約400種類の嗅覚受容体のほとんどが、未だ機能がわからないことの原因だと考えられている。
この課題を解決すべく、今回の研究ではタンパク質工学的なアプローチを取り入れ、解析したいヒト嗅覚受容体の一部のアミノ酸を、ヒト以外の多くの生物種の嗅覚受容体で共通しているアミノ酸に置き換える改変を行った。これにより、嗅覚受容体を安定的なタンパク質として培養細胞の表面につくらせることに成功した。つまり、ヒトの嗅覚受容体のアミノ酸配列を多くの生物種に共通のアミノ酸に置き換えることで、培養細胞の膜の表面に受容体が発現することに成功した。
嗅覚受容体を安定的に発現させた細胞に様々なムスク香料を添加し、応答する嗅覚受容体を探した結果、「OR5A2」はこれまで認識する受容体が見つかっていなかった多環式ムスクや脂環式ムスクを含め、4グループのムスク香料を認識する受容体である可能性を見出した。
最終的に化学構造の異なる56種類の香料に対する応答性として、28種類のムスク香料すべてを認識し、ムスクの香りを呈さない28香料には反応しないことを確認した。以上の結果より、「OR5A2」はムスク香料を網羅的に認識可能な、ムスクの香りを感じさせることに寄与する嗅覚受容体であることがわかった。
花王は、「OR5A2」が認識した20香料と認識しなかった27香料の化学構造情報を用いて機械学習モデルを作製した。このモデルの判別性能である曲線下面積は0.945と高く(正答率約96%)、学習に使用しなかったムスク香料も優れた精度で判別可能だった。これらの結果は、「OR5A2」の認識に基づく機械学習モデルがムスクの香りがする新しい香料素材を探索する上で有用である可能性を示した。
嗅覚受容体を解析可能にするために確立した方法は、今後より多数の嗅覚受容体の役割を理解する上で有効な手段になり得ることから、この方法をさらにブラッシュアップさせることで特定の香り感覚にキーとなる嗅覚受容体についてさらなる理解を深めていく。