ヒノキ新薬・阿部武彦社長に聞く、時代に翻弄されない「不変」の理念

C&T 2015年9月15日号 74ページ

カンタンに言うと

ヒノキ新薬・阿部武彦社長に聞く、時代に翻弄されない「不変」の理念
 1956年創業のヒノキ新薬(本社=東京都千代田区)は来年、60周年の節目を迎える。同社では創業から一貫して科学的な根拠やエビデンスのある化粧品づくりを信条に掲げ、これまで明確な論理性と科学性の裏付けのある製品(ヒノキ肌粧品)づくりと販売姿勢を貫いてきた。

 1976年に先代からバトンを受け継いで以降、約40年にわたって経営のトップに立ち、時代に翻弄されない企業基盤を築き上げてきた阿部武彦社長に、創業から守り続けている企業理念を聞いた。

第二次世界大戦、戦後の関東大洪水を経て
ヒノキチオール抽出機製作が創業のきっかけに

 ――創業の原点についてお聞かせください。

 阿部 当社の歴史を語るうえで欠かすことができないのが、創業者である父・阿部武夫が第二次世界大戦の最中に歩んだ道のりだ。

 父はヒノキ新薬を創業する以前、三信鉄工という名の軍事工場を東京(砂町・錦糸町)で営んでいた。その工場は戦時中、日本の軍事産業に貢献したということで当時の商工大臣で安倍晋三首相の祖父である岸信介氏から表彰された。 しかし、1945年3月10日の東京大空襲でアメリカ軍による無差別爆撃によって砂町・錦糸町の工場が全焼し、48名の従業員が犠牲となった。

 戦後は軍事工場から民間工場に切り換えて細々と鉄工所を続け、事業の再起を目指していた。その矢先、戦時中に軍事材として山林の乱伐を行ったことが原因で関東地域では大雨によって広範囲の河川が氾濫し、秩父や奥多摩地域の上流から来る濁流が東京の下町地域を襲い、父の工場は大洪水の被害に見舞われた。

 東京の大洪水は敗戦後に2~3度起こり、1951年頃には工場の倒産を余儀なくされる。父はその後、戦前から築き上げた豊富な人脈を活かし、今で言うコンサルタントの商売を始めた。この時、父がある人から「ヒノキチオールを抽出するボイラーを作ってくれないか」と相談を受けた。

 ボイラーは鉄工所時代に製作したこともあり、父が仕事を引き受けて1955年に完成するが、その依頼者から「お金がないのでこれを代わりにして欲しい」と譲り受けたのがヒノキチオールだった。この時、父は海のものとも山のものともつかぬヒノキチオールを何とかお金に換えなければということで、ボイラー製作後、ヒノキチオールのルーツを知るため、今のように車道が整備されていない青森ヒバが生育する恐山まで足を運んだ。

 前置きが長くなったが、こうして父がヒノキチオールの特長について自らの目で調べ、素材の持つ優れた殺菌効果と消炎作用といった薬理効果に対する知見を得て、ボイラー完成の翌年に「ヒノキ新薬」が創業した。

 父の歩んできた道のりは、まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺に近い。戦争や空襲、そして洪水で倒産することがなければヒノキ新薬はこの世に存在しなかった。人生とは面白いもので、もしも戦後すぐに大洪水が起きていなければ、今頃は化粧品メーカーではなく鉄工屋になっていただろう。

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